75 第39図 012号墓出土遺物 1
第9節 022号墓
(1)遺構(第56図〜第57図、図版24)
022号墓は調査区丘陵の西斜面に位置し、墓口の方位は西南西である。丘陵斜面に横穴を掘削し、墓室を 構築した亀甲墓である。墓口が3分の1ほど開口しており、残り3分の2は大きさが異なる礫で雑な野面 積みにより閉塞されていた。
チジ(屋根)は平面形が後方で湾曲する馬蹄形を呈し、高さ約0.3mの石積みでヤジョーマーイが構築され る。長方形の石切を屋根の内側及び上側に面を向ける。ウーシに繋がる屋根周縁の石列は2条の石列で構築 され、前列側は板状の切石を屋根の内側及び上側に面を向ける。後列の石列は外側及び上側に面を向ける。石 列の間は造成土で重鎮する。チジ中央は緩やかな弧状を呈し、石敷きは見られなかった。仕上げは盛り土で行 い、その表層に漆喰塗布により仕上げがなされている痕跡が一部残存する。マユ(眉石)は4つの切石で構成 されている。眉頂部は緩やかな丸みを帯び、眉端部に向かって下方に屈曲し、先端部付近で上方に反る。両端 部は肥大しない。眉正面の庇部には小さな段が施されている。スディイシ(袖石)の上にウーシ(臼)及びクヮ ウーシ(子臼)が配置される。墓正面は丁寧な布積みによって構築され、墓口の上部にはカガンイシ(鏡石)が 見られ、明瞭なジョウカブイ(門被い)は見られず、カガンイシ下部に浅い抉りが見られる。シミイシ(隅石)は 意匠されており、墓口の高さ約1.4m、幅約0.64m、奥行き(羨道の長さ)約0.82mである。サンミデー(供物台)
は岩盤削り出しにより構築され、墓庭と約8㎝の段差が設けられている。向かって左隅に岩盤の窪みがあり、
そこに板状の切石を2つはめ込んだカビアンジ(紙銭焼き場)状の穴がある。スディイシ(袖石)は墓正面左右 に板状の切石による布積みにより1段で構築される。ハカヌナー(墓庭)は岩盤を掘り込んで平坦化を行って いる状況が窺えた。岩盤の窪み部分に1〜10㎝大の石灰岩を砕いた小礫と石粉が混じった10YR6/8明黄褐 色砂の造成土を重鎮し、その上層に1㎝〜5㎝大の礫が混じる10YR2/3黒褐色砂質土で表面を敷き均す様 子が見られた。ワラビヌティ(童の手)と思われる粗い相方積みが角から2.8mまで伸びる。先端部に樹木があ るため不明瞭だが、ワラビヌティの先は欠落すると見られる。岩盤を掘り込んで構築されたハカヌジョー(墓 門)があり、幅約1.3mを測る。縁には4つの切石が配される。ハカヌジョーから約1m下がった位置に墓庭が あり、浅い半地下状となる。右ナージミー後方約2.6mの箇所から021号墓に向かって屋根の後方に高さ4.0 mの野面積みによる壁が構築される。この石積みにより021号墓の左ナージミーは消滅し、本墓が021号墓の 後に構築されたことが分かる。ハカヌナー(墓庭)は幅約4.5m、奥行き約5.1m、平面形は長方形である。
墓室は幅約2.5m、奥行き約3.0m、シルヒラシから天井までの高さ約1.6mを測る。タナ(棚)は奥に3段、
左右に1段で、3段目は平面観がコの字状となる。面の高さはフラットで無段となることから、5類a型に 相当する。棚は岩盤削り出しにより構築されるが、奥棚の1段目の縁部分は8個の切石が配されている。
シルヒラシは幅約1.3m、奥行き約1.2mを測り、石灰岩を砕いた小礫と石粉の混じった10YR7/6明黄褐色 砂を敷き均して仕上げる状況が窺えた。
本墓の造墓年代は明らかでないが、使用時期については出土した蔵骨器から、銘書で最も古い年号が明 治21年(1888)で上焼コバルト釉御殿形であり、新しい年号は昭和20年(1945)でマンガン釉甕形である。
それらから、19世紀後半から20世紀中頃まで使用されていたことが考えられる。
(2)遺物(第59図、図版63)
本墓からは甕形、御殿形の蔵骨器が墓室から出土した。また副葬品の出土も数点見られたが、破片のた
め図化は見送った。
第59図195、196の蔵骨器1はマンガン釉甕形のセットである。 蓋は身の上でなかったが(第58図)、サイズ及び他の蔵骨器との兼 ね合いからセット関係と断定した。195蓋はつまみが宝珠形でつ まみ台は2段見られる。鍔は厚みがあり、端部は丸みを帯びる。内 外面共にナデ調整を施される。196身は横帯1〜4すべて沈線と なり、肩部文様帯は沈線で蓮弁文及び葉文を施す。胴部文様帯は貼 り付けによるアーチ形の屋門のみが見られる。胴下部文様帯は櫛 描波状文が2条施される。底部立ち上がりから6㎝の箇所に3箇 所の穿孔が見られる。蓋内面に「昭和二十年四月/又吉マツ/行年
/六十二才」の銘書が確認できる。また図化は見送ったが、蔵骨器
2・3は器高21.2㎝〜21.4㎝の小型蔵骨器で、それぞれ蓋内面に「昭和二十年四月/又吉伍清/行年/三 十九才」「昭和二十年四月/又吉伍助/行年/三十六才」とあり、蔵骨器1と親子関係にある血縁者を同時 期にそれぞれの蔵骨器に納骨したことが分かる。亡くなった年が同じ昭和20年(1945)4月であることか ら沖縄戦で亡くなった方の可能性が考えられる。
第59図197、198は上焼コバルト釉御殿形のセットで蓋は右棚から、身はシルヒラシから出土した。どち らも背面がシルヒラシを向いていたことから原位置ではないと考えられた。197蓋は入母屋形で大棟に一 対の鯱が見られ、唐破風の頂部に龍頭を施される。龍頭および降棟の先はツノになる。中央に格子文と花 文、円文を貼り付ける。庇に重ね焼の跡が見られた。198身は口縁部の下方に庇をつけ、庇上面の中央に龍 頭、降棟に獅子頭が施される。胴部中央に2本の柱を貼り付けし、その中央に銘書が墨書される。口唇部に も「明治廿一年戌九月十二日洗骨又吉蒲」の銘書が確認できる。
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第9節 022号墓
(1)遺構(第56図〜第57図、図版24)
022号墓は調査区丘陵の西斜面に位置し、墓口の方位は西南西である。丘陵斜面に横穴を掘削し、墓室を 構築した亀甲墓である。墓口が3分の1ほど開口しており、残り3分の2は大きさが異なる礫で雑な野面 積みにより閉塞されていた。
チジ(屋根)は平面形が後方で湾曲する馬蹄形を呈し、高さ約0.3mの石積みでヤジョーマーイが構築され る。長方形の石切を屋根の内側及び上側に面を向ける。ウーシに繋がる屋根周縁の石列は2条の石列で構築 され、前列側は板状の切石を屋根の内側及び上側に面を向ける。後列の石列は外側及び上側に面を向ける。石 列の間は造成土で重鎮する。チジ中央は緩やかな弧状を呈し、石敷きは見られなかった。仕上げは盛り土で行 い、その表層に漆喰塗布により仕上げがなされている痕跡が一部残存する。マユ(眉石)は4つの切石で構成 されている。眉頂部は緩やかな丸みを帯び、眉端部に向かって下方に屈曲し、先端部付近で上方に反る。両端 部は肥大しない。眉正面の庇部には小さな段が施されている。スディイシ(袖石)の上にウーシ(臼)及びクヮ ウーシ(子臼)が配置される。墓正面は丁寧な布積みによって構築され、墓口の上部にはカガンイシ(鏡石)が 見られ、明瞭なジョウカブイ(門被い)は見られず、カガンイシ下部に浅い抉りが見られる。シミイシ(隅石)は 意匠されており、墓口の高さ約1.4m、幅約0.64m、奥行き(羨道の長さ)約0.82mである。サンミデー(供物台)
は岩盤削り出しにより構築され、墓庭と約8㎝の段差が設けられている。向かって左隅に岩盤の窪みがあり、
そこに板状の切石を2つはめ込んだカビアンジ(紙銭焼き場)状の穴がある。スディイシ(袖石)は墓正面左右 に板状の切石による布積みにより1段で構築される。ハカヌナー(墓庭)は岩盤を掘り込んで平坦化を行って いる状況が窺えた。岩盤の窪み部分に1〜10㎝大の石灰岩を砕いた小礫と石粉が混じった10YR6/8明黄褐 色砂の造成土を重鎮し、その上層に1㎝〜5㎝大の礫が混じる10YR2/3黒褐色砂質土で表面を敷き均す様 子が見られた。ワラビヌティ(童の手)と思われる粗い相方積みが角から2.8mまで伸びる。先端部に樹木があ るため不明瞭だが、ワラビヌティの先は欠落すると見られる。岩盤を掘り込んで構築されたハカヌジョー(墓 門)があり、幅約1.3mを測る。縁には4つの切石が配される。ハカヌジョーから約1m下がった位置に墓庭が あり、浅い半地下状となる。右ナージミー後方約2.6mの箇所から021号墓に向かって屋根の後方に高さ4.0 mの野面積みによる壁が構築される。この石積みにより021号墓の左ナージミーは消滅し、本墓が021号墓の 後に構築されたことが分かる。ハカヌナー(墓庭)は幅約4.5m、奥行き約5.1m、平面形は長方形である。
墓室は幅約2.5m、奥行き約3.0m、シルヒラシから天井までの高さ約1.6mを測る。タナ(棚)は奥に3段、
左右に1段で、3段目は平面観がコの字状となる。面の高さはフラットで無段となることから、5類a型に 相当する。棚は岩盤削り出しにより構築されるが、奥棚の1段目の縁部分は8個の切石が配されている。
シルヒラシは幅約1.3m、奥行き約1.2mを測り、石灰岩を砕いた小礫と石粉の混じった10YR7/6明黄褐色 砂を敷き均して仕上げる状況が窺えた。
本墓の造墓年代は明らかでないが、使用時期については出土した蔵骨器から、銘書で最も古い年号が明 治21年(1888)で上焼コバルト釉御殿形であり、新しい年号は昭和20年(1945)でマンガン釉甕形である。
それらから、19世紀後半から20世紀中頃まで使用されていたことが考えられる。
(2)遺物(第59図、図版63)
本墓からは甕形、御殿形の蔵骨器が墓室から出土した。また副葬品の出土も数点見られたが、破片のた
め図化は見送った。
第59図195、196の蔵骨器1はマンガン釉甕形のセットである。 蓋は身の上でなかったが(第58図)、サイズ及び他の蔵骨器との兼 ね合いからセット関係と断定した。195蓋はつまみが宝珠形でつ まみ台は2段見られる。鍔は厚みがあり、端部は丸みを帯びる。内 外面共にナデ調整を施される。196身は横帯1〜4すべて沈線と なり、肩部文様帯は沈線で蓮弁文及び葉文を施す。胴部文様帯は貼 り付けによるアーチ形の屋門のみが見られる。胴下部文様帯は櫛 描波状文が2条施される。底部立ち上がりから6㎝の箇所に3箇 所の穿孔が見られる。蓋内面に「昭和二十年四月/又吉マツ/行年
/六十二才」の銘書が確認できる。また図化は見送ったが、蔵骨器
2・3は器高21.2㎝〜21.4㎝の小型蔵骨器で、それぞれ蓋内面に「昭和二十年四月/又吉伍清/行年/三 十九才」「昭和二十年四月/又吉伍助/行年/三十六才」とあり、蔵骨器1と親子関係にある血縁者を同時 期にそれぞれの蔵骨器に納骨したことが分かる。亡くなった年が同じ昭和20年(1945)4月であることか ら沖縄戦で亡くなった方の可能性が考えられる。
第59図197、198は上焼コバルト釉御殿形のセットで蓋は右棚から、身はシルヒラシから出土した。どち らも背面がシルヒラシを向いていたことから原位置ではないと考えられた。197蓋は入母屋形で大棟に一 対の鯱が見られ、唐破風の頂部に龍頭を施される。龍頭および降棟の先はツノになる。中央に格子文と花 文、円文を貼り付ける。庇に重ね焼の跡が見られた。198身は口縁部の下方に庇をつけ、庇上面の中央に龍 頭、降棟に獅子頭が施される。胴部中央に2本の柱を貼り付けし、その中央に銘書が墨書される。口唇部に も「明治廿一年戌九月十二日洗骨又吉蒲」の銘書が確認できる。